「すずちゃんは、いつも落ち着いてるね」
「三河さんは、周りをよく見ていて、しっかりしてるわ」
学校では、先生やクラスメイトからそんなふうに言われることが多い。
自分では別にそう思わないけど、あまりにもよく言われるから、無意識のうちに「しっかりした私」を演じているのかもしれない。それは、少し息苦しい。
かと言って、急にくだけた自分を出すのも、なんだか違う気がする。
どうでもいい、とまでは思わないけど、こういう周りの評価と本当の自分とのズレは、いつになったら気にならなくなるんだろう。
まだ子供なのかな、私。
こんなことをいちいち考えずに話せるのは、仲の良い友達の数人と……
……
“すずは、もっと自信持てよ。お前が考えてることって、結構ユニークで面白いんだから”
……お兄ちゃんくらいだ。
あれは、高校に入って初めての文化祭の準備期間だった。
クラスの出し物の企画で、私はなかなか良いアイデアが浮かばずに悩んでいた。活発に意見を出し合うクラスメイトたちを前に、自分の考えを口にする勇気がどうしても出なかった。「私のアイデアなんて、きっとつまらない」と、そう思っていたから。
家に帰ってからも、そのことで頭がいっぱいだった。リビングでは、お兄ちゃんが大きな声で歌を歌いながら大学生のレポートか何かに取り組んでいる。ちなみに、めちゃくちゃ歌詞間違えてる。邪魔しちゃいけないと思いながら、思わず深いため息が漏れてしまった。
「ん? すず、どうした? なんか悩みでもあるのか? このお兄様が聞いてやろうじゃないか」
お兄ちゃんは、いつも自信満々だ。でも、その自信が嫌味に聞こえないのは、お兄ちゃんなりの優しさがちゃんとあるからだって、私は知っている。
「別に、大したことじゃないよ……」
「はいはい、その『大したことない』が一番大したことなんだよ。言ってみろって」
強引だけど、どこか安心するお兄ちゃんの言葉に促されて、私はぽつりぽつりと文化祭のことを打ち明けた。自分のアイデアに自信が持てないこと、周りにどう思われるか不安なこと。
お兄ちゃんは、パソコンのキーボードを打つ手を止め、真剣な顔で私の話を聞いてくれた。
「ふむふむ。で、すずのアイデアは?」
私が恐る恐る自分の考えを伝えると、お兄ちゃんは少し考えた後、あっさりと言った。
「それ、面白いじゃん。なんで自信ないんだよ?」
「え、でも……なんか、地味じゃないかなって」
「地味かどうかは、やってみないと分かんねーだろ。それに、すずが本気で面白いと思ったんなら、それを信じろよ。周りの顔色ばっか窺ってどうすんだ」
それから、お兄ちゃんは私のアイデアをより面白くするための具体的なアドバイスもいくつかくれた。その視点が、私にはまったく思いつかないようなもので、やっぱりお兄ちゃんはすごいな、と思った。
後日、私は勇気を出して自分のアイデアをクラスの企画会議で提案した。お兄ちゃんのアドバイスも取り入れて練り直した企画は、みんなから「それいいね!」「面白そう!」と予想以上の好反応で受け入れられた。
「お兄ちゃん、あの時はありがとう。お兄ちゃんのおかげで、うまくいったよ」
文化祭の準備が少し落ち着いた頃、私はリビングでお礼を言った。
「おう。まあ、俺のアドバイスも良かったけど、すずがちゃんと俺に相談してきたのが一番の勝因だな。お前、そういうの苦手だろ? 一人で抱え込むタイプだから」
「……そうかもしれない」
「だろ? でも、俺には遠慮すんな。お兄ちゃんだからな」
そう言って、お兄ちゃんは私の頭をくしゃっと撫でた。
「それに、すずはもっと自信持てよ。お前が考えてることって、結構意外な感じで面白いんだから。ただ、それを表に出すのが下手なだけだ」
初めて言われた言葉だった。
ユニークで、面白い。
お兄ちゃんは、学校の先生や友達が見ている「落ち着いた私」や「しっかりした私」じゃなくて、もっと奥の、私自身もよく分かっていないような隠れた部分を見てくれているのかもしれない。
そういえば、お兄ちゃんと話している時は、学校で友達と話す時よりも、言葉を選ぶのに悩まない気がする。何かを気にしたり、考えすぎたり、あまりしていない。
お兄ちゃんは、私が「落ち着いている」とか「しっかりしている」なんて、たぶん一度も言ったことがない。「案外負けず嫌いだよな」とか「ヘンなとこで頑固だ」とか、そういうことばかりだ。
でも、それがなぜか心地よかった。
最近、お兄ちゃんは大学のプレゼンか何かで忙しそうだ。夜遅くまで自室の電気がついていることも多い。
「お兄ちゃん、疲れてるのかな……」
ふと、以前お兄ちゃんが「駅前の新しいカフェに、期間限定の特別なコーヒーがあるらしいんだよな。飲んでみたいけど、ちょっと高いんだよなー」なんてぼやいていたのを思い出した。
よし、あれを買っていってあげよう。頑張ってるお兄ちゃんへの、ささやかな差し入れだ。
学校帰りに、そのカフェに寄ってみた。ショーケースには、お目当てのコーヒー豆の紹介と、テイクアウト用のカップが並んでいる。
「期間限定のブレンドコーヒー、ホットでふたつください。持ち帰りでお願いします」
自分の分も、ちゃっかり頼んでしまった。
温かいカップが倒れないように気をつけながら、少し早足で家路を急ぐ。
お兄ちゃんの部屋のドアを、そっとノックする。
「お兄ちゃん、入るよ」
パソコンの画面から顔を上げたお兄ちゃんは、少し疲れたような表情をしていた。
「おー、すずか。どうした?」
「これ。前に飲んでみたいって言ってたでしょ? 差し入れ」
私は持っていたコーヒーカップをひとつ、お兄ちゃんの机に置いた。
お兄ちゃんは一瞬目を丸くして、それからぱあっと顔を輝かせた。
「マジか! サンキュ、すず! よく覚えてたな。ちょうど集中力切れてきたところだったんだよ、ナイスタイミング!」
「私も飲んでみたくて、自分の分も買っちゃった」
そう言って、私も自分の分のコーヒーを一口飲む。香ばしい香りが鼻に抜けて、なんだかホッとする味だ。
二人で黙ってコーヒーを飲んでいると、お兄ちゃんがぽつりと言った。
「お兄ちゃんって、いつもありえないくらいだけど…たまには、そういう風に疲れたりもするんだね」
「当たり前だろ。俺だって人間だ。特に今回は結構手強い課題でさ。…でも、すずがこれ持ってきてくれたから、もうひと頑張りできそうだわ」
お兄ちゃんは、コーヒーカップを少し持ち上げて、私にウィンクして見せた。
その時、ふと聞いてみたくなった。
「…ねえ、お兄ちゃんはさ、私のこと、本当はどう思ってるの?」
改まって聞くのは少し照れくさい。
お兄ちゃんは「え、なんだよ急に。改まって」と少し驚いた顔をしたが、すぐにニヤッといつもの自信ありげな笑顔に戻った。
「んー、そうだな…『普段は猫かぶってるけど、本当は面白いこと考えてる変な妹』かな?」
「ちょっと! 変な妹って何よ!」
思わず少し大きな声が出てしまった。
「ははっ、褒め言葉だよ。周りに合わせてばっかじゃつまんないだろ? お前は、お前だけの隠れた世界を持ってる。そこがいいんじゃん」
お兄ちゃんの言葉に、顔が少し熱くなるのを感じた。
「…このコーヒーね」と、私は自分のカップに目を落としながら言った。
「ブラックなんだけど、隠し味に少しだけスパイスが入ってるんだって。だから、普通のブラックとはちょっと違う味がするの。…なんだか、お兄ちゃんみたい。いつも自信満々で、ちょっと普通じゃない感じとか」
お兄ちゃんは「へえ、そう見えるか。確かにただのブラックじゃねえかもな、俺は」と面白そうに言って、コーヒーを一口飲んだ。それから、私のことを見て付け加える。「…でも、すずだって、自分で思ってるよりずっと面白い味してると思うぜ? この隠し味みたいに、な」
「え?」
「いや、なんでもない。…ありがとな、すず。このコーヒー、マジで美味い」
お兄ちゃんはそう言って、またパソコンの画面に向かったけど、その横顔はさっきよりも少しだけ元気になったように見えた。
私も自分のコーヒーをもう一口飲む。
隠し味のスパイスが、ほんのり舌に残る。
お兄ちゃん。
私も、このコーヒーみたいに、ちょっとは特別な味がするのかな。
そうだったら、いいな。
このコーヒー私も好きだよ